イケメン哲学者!國分功一郎さんの著書を読んでみた~。

本や読書。

 さて、皆さんはテツガクと聞くとどんな感じがしますか?
 なんか…小難しいことをブツブツ言って、悪事を善事となし青年を腐敗させるものではないか…とまではいかなくても、よくわかんない感じがするかもしれません。

 でも、ぢつは皆さんは普段の生活のなかでも、じっさいにテツガクをしているのです。たとえば、「なんでだろう?」とか「なんでかな~?」って考えることってありますよね~。その中には、すぐ答えのでるものもあれば、なかなか答えの出ないものもあります。そういった、「なぜなのか…」と考えるとき、皆さんは哲学をしているんです。検索して調べて、読んで考えたりしますよね。その時、皆さんは哲学をしていると言っていいんです!

 ただ、面倒だし答えがでないので、とちゅうで考えるのをやめちゃったり、あきらめちゃったりしますよね。我々は、それでいいんです。
 しかし、世の中には、そういった事をとことん考え抜くという人たちがいます。
 それが哲学者というわけです。なので、色んなテーマがありますので、色んな哲学者がいるってことですよね~。
 その中でも、現代日本を代表する哲学者の一人が、國分功一郎先生なわけです。

 そして…ワタクシは、ついにその著書を手にしてしまったのでした…。

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國分功一郎さんとは? 

 國分先生は、2023年現在は、東京大学の総合文化研究科の教授をされています。ご自身の出身学部というわけですが、早稲田大学を卒業された後に東大に行ってという…なんとも…すごいですね~。

 そんな國分先生は、1974年生まれですから…2023年の今年で49歳ということですかね。

イケメンである!

ご本人のTwitterより

 ちょっとですね~。納得いかないことには…、國分先生はイケメンってことですね~。
 いや、もちろん白髪のおじいちゃんとか…ひげもじゃのおじいちゃんというイメージはありませんけども、49歳ですしね。
 でもね~。哲学で難しいことを考えていらっしゃるのに、イケメンとは…天は二物を与えずという格言はどこにいったんですかね~。
 さらに、動画や講演はみてませんが…見てファンになっちゃったらどうしよう…。今回、著書を読みましたが、語り口がいい!

 あ、まぁ、今回読んだのは、「暇と退屈の倫理学」でした。この本は、たしか講義がもとになっているので語り口がわかりやすいということなのかもしれませんが…とにかく、読みやすくていい!

 そして、上の写真はご自身の本棚の前で撮影ということですが…シャア専用のズゴックがいい!

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暇と退屈の倫理学

涙は…でなかったなぁ~。

 2023年の今年は、夏の文庫祭りで新潮文庫の100冊にラインナップされていましたが、ぢつは、もっと前に買っていたんですよね~。それが、どこぞの積読タワーに入っていたのですが、今回抜き取ったのが、國分先生の「暇と退屈の倫理学」だったというわけです。

 読んだ感想としては、これは面白くてわかりやすい。ということでした。
 暇と退屈について考えるって…さらに、倫理だなんて…なんか関係があるのかな~っと不思議だったのですが、もう…ほぼ一気読み…というのは嘘で、考えながらじっくり読ませていただきました~。

 基本的にわかりづらい部分があまりなく…読み返せば理解できることが多いですね。語り口も現代的で…そりゃそうだ…難しい言葉が少なくてとてもよかったです。

 なにか、一つの事を考える時、例えば〜とか例を出したり、誰それの著書ではこのように考察されていて〜っと紹介されている事が多いです。たいていは、そこの部分の説明が終わったら、立証されたという事で、その後出てこなかったりするんですが、この本に関しては、最後まで出てくるんですね〜。全てが密接に絡み合って、まるで伏線のように張り巡らされた考えは、最後に「ここに繋がるんだ〜」っと、感動するくらいでした。そんじょそこらの推理小説より面白いですね〜。

 そしてこの、「暇と退屈」ということがですね。色々な分野に関わっているそうです。哲学や倫理学だけじゃなくて…歴史学、考古学、人類学、経済学、政治学、社会学、心理学、生物学や医学までかかわっているそうなんですよね~。ちょっと、説明できないですが…もぅ~面白いので、ぜひ読んでください。

 全部で7章まであります。1日1章読めば1週間で終わりますから、そして1章もそんなになが~く難しくないので、通勤電車の行き帰りで読めるかな~っと思います。

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さて、ワタクシも考えてみよう!

雲を眺めてるとき…暇そうに見える?

 読んでない人には…なんのこっちゃかわからないかもしれませんが、ハイデッカーが掲げた退屈の第二形式の事例がとてもよく理解できた…と思っています…。
 國分さんの結論のなかで、ハイデッガーがパーティを楽しめなかったのは、パーティでの音楽や食事など「物を楽しむための訓練を受けていなかったからである」としておりますが…どうでしょうか。

 もちろん、漢文やギリシャ語の本などは、訓練…訓練でなんとかなるのか…? ちゃんとした教育を受けなければ楽しめませんね。それはわかります。ただ、本当にそうなのでしょうか…?

 子どもを見ているとわかりますが、特別な知識もなく、特別な訓練を受けていなくても、あらゆるものに興味をいだき、五感をフル活動させて楽しんでいるのではないでしょうか。
 うちの子も2~3歳のころ広辞苑をめくって遊んでましたが…あれは、純粋に楽しんでいたと思えます。手触りや紙をめくった時の音、やぶったときの音、かじってみた時の味、ほこりのにおい…ボロボロになった広辞苑が何かを物語っているようでした。

 この時、子どもは文字を読めませんが…そもそも、文字を文字と認識していません、自分の範囲で楽しんでいるわけです。
 大人がギリシア語の本を手にしたとき、ギリシア文字を文字と認識した大人は「よめないから楽しめない」と判断したんですよね。これは「文字が読めないから楽しめない」ということにとらわれてしまっているからです。たとえば、別の人は…「なんの本だろうか?読めないけど高く売れるかな?」とか「装丁がいい!」とか別の視点で…楽しむというわけではないですが、興味を抱く人はいるわけです。乗り継ぎの電車を待っている人も、別の視点で楽しめれば退屈しなかったはずですよね。

 この別の視点というのが、環世界の移動というやつでしょう~。子どもたちは、あっというまに環世界を飛び出してしまうわけです。習慣ではなく見るもの聞くものに興味がわく、だから子どもは退屈しない。

 とすれば、ハイデッガーがパーティを楽しめなかったのは、「物を楽しむための訓練を受けていなかった」のではなく、心ここにあらずというか、別のことに気をとられていたのではないでしょうか。つまり、心配事があったというわけです。

 我々も、重要な会議だからと熱がでた子どもを寝かせて、家を飛び出してみたものの…心配で会議にならなかった~というような事がありますよね。つまり、人間は退屈の第一型式=第三形式と第二型式を同時に経験するというようなこともあるわけです。まぁ、そこまで大きな心配事ではないかもしれませんが…家の鍵しめてきたっけな~とか、大したことじゃないんだけど心配みたいなことがあると、パーティは楽しめないかもしれな~っと思います。

 つまり、心配事がない子どもは、どんな時でも自由に環世界を移動して楽しめるわけです。興味のあるコトへ自由気ままに行くからね。ところが…子どもを一か所に座らせておくと、とたんに飽きてしまいますよね。映画もコンサートも座ってられないんです。新しい環世界を求めて旅立ちたいんです。

 これは、國分さんが言っているように、電車の待ち時間が4時間あったとして…子どもや犬は自由に行動ができれば待てますよね。あっち行ってクンクン、こっち行ってクンクン、同じこと何度もくりかえしたりして…私たちも、子どもと犬の様子をみているだけで、あっという間の4時間かもしれません。ところが、「ベンチに座ってなさい」となると、10分だって座ってられません。飽きちゃって。つまり、退屈なんですよね。

 ということは、自由な行動を制限されるということが退屈の発生原因なのかもしれません。大人になると完全に自由な行動はとれません。それこそ、法律的、社会的、倫理的に照らし合わせて問題なければ、行動できますね。そういった、色々な事柄に制限されている状態での行動が退屈を生じさせているのだとすると…リードで繋がれている犬も退屈するかもしれませんね。

 つまり、ルソーの自由人には行動の制限がありませんから、退屈しないわけですね。とすると、人間は発生した時から群れ生活をしてきたと考えられることから、群れでのルールや決まりによっては、退屈が発生した可能性はあるわけですよね…。チンパンジーの群れやゴリラの群れで退屈が確認できるかもしれませんね~。

 いやいや、大人だって何も心配ごとがなくても、彼女の付き添いで行くクラシックコンサートとかフランスの恋愛映画とか退屈だぜ…というご意見もあるでしょうね〜。
 そうですね〜。色々な事情で行動できないという制限から退屈もするでしょうが、これは「訓練を受けていても起こりうる退屈」ですよね。
 つまり、クラシックやフランス映画のプロは「いまさらこの曲?」とか「この映画10回はみたぜ」とか、習慣化されてしまったがゆえに退屈してしまうかもしれません。知ってるからこそ、何か別の事が気になり出しちゃうかもしれませんよね。

 ちなみに、退屈の第一形式=第三形式は、何かに囚われているから逆に退屈しないんでしたよね。これは、何に囚われているかというと目的ですよね。この目的によっては、彼女の付き添いの時でも退屈しないんです。だって、彼女と音楽や映画を楽しむのが目的だから…。その後の食事で「俺、この映画10回は見たんだけど、キミと見た11回目で新しい発見があった」なんてセリフが飛び出してくるかもしれませんよね~。

 つまり、ハイデッカーもパーティが目的なら退屈はしなかったんです。ところが、パーティの目的が、誰かと話をするつもりだった。とか、誰かと会う予定だったとか、楽しみにしていた料理が出なかったとか…そういう目的が達成できなかったがゆえに、退屈してしまう。
 目的が達成できないのであれば、別の環世界へ移動したいのだが…「あら、もうお帰りになるの?」なんて言われてしまっても困るので…とりあえず、参加しているという感じ…退屈だ…。

 つまり、行動を制限されていても目的があれば退屈はしない。だた、目的を見いだせない行動の制限は退屈を発生させるのではないでしょうか。若者が、実家を早く飛び出したいというのも、これか?

 ワタクシが、國分さんの第二章「暇と退屈の系譜学」において、遊動生活と定住生活の視点から暇と退屈を考えていることがすごくわかりやすかったのですが、もう一つ、「人間はいつから暇と退屈を認識するようになったのかな~」ということが気になるんです。書いてあったらごめんなさい~。
 これは、「暇と退屈を認識するのに言語は必要なのか?」という問題提起でもあります。

 先ほどの子どもと犬を例にとると…、渋谷駅のハチ公はリードにつながれていないが、ずーっと座ってご主人様の帰りを待っている。「待つ」という目的があるから行動の制限もなければ、退屈もしない。それとは別の家の庭にリードでつながれている犬は、散歩の時間を待っている。ワタクシが見るに、あの犬は暇そうだが…果たして、自分で暇だな~っと思っているのだろうか?それとも、ご主人が今に来て、自分を散歩に連れて行ってくれるという目的のために待っているのだから、退屈はしないのだろうか…。

 ところが、子どもは、10分だって同じ場所に座っていられない!これは、行動を制限されたから?退屈だから?言語をまだ理解していない子どもは、自分の不満をぐずったり泣いたりすることで大人に伝える。
 ずーっと座らせておくには、スマホをあたえる。ぬいぐるみをあたえる。食べ物をあたえる。つねに座りながら環世界の移動を行えばよい。いつから、その時の思いを「暇とか退屈」という言葉に変換するのだろうか。初期の人間は、どのような状態の時を「暇とか退屈」という風に認定し、その状態の事を「暇って言うことにしよう!」と決めたのだろうか…。周りの人も「あぁ~そうだね。ああいう時のことを暇っていうんだね~。あ~なるほど、言い得て妙だね~」なんて…ワイワイ言ったのだろうか。

 たぶん、人間の大人は時代によって、社会のありかたによって変化してると思うので「暇と退屈」という感覚も違っているかもしれませんが、人間の子どもの様子は…たぶん、そう変わらないと思うんですよね~。だから、子どもが「暇を体験するのはいつなのか」というのがわかると面白いかな~っと思うのですが、どうやって調べるんですかね~こういうの。

 ん~、これ以上は進めなくなってしまった…。

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まとめ!

 ん~、自分なりの結論を!
 と思いましたが、勉強不足のため、なんとなく中途半端な感じになってしまいました…。
 國分さんの本が、ワタクシに「考えてみたい!」という欲求を…新しい環世界を教えてくれました~。ありがとうございました~。
 結局自分の考えをまとめるためにも、「暇と退屈の倫理学を」虫食いな感じで、色々あっちこっち何度もよみましたし、特に第7章と結論は読みましたね~。とても、面白くて何回読んでもいいですね~。
 
 ん~、ちょっと悔しいですが、これがワタクシの限界ですね~。
 また、色々な本を読んで、気づいたら…書きたしたいと思います~。

 ほとんど文字しかありませんから、誰も読まないとは思いますが…もし、読んでくださって、「それはおかしいぞ!」という部分がありましたら教えてください~。

 あ、それともう一つ!
 「暇と退屈」は…イメージ的には悪く感じられますが…「暇と退屈が好きな人」もいるはずです。その人にとって、「暇」という状態は幸せなのですが、その状態を「暇」と表現するのでしょうか?
 目的もないが、行動もしない、考えもしないただ、ぼーっとしてる時…。他人からは「あの人、暇そうだな」と見えますが…本人にとっては「暇」ではない。
 もし、その状態を「暇」と呼ぶなら、その「暇な状態」を好きな人はいる。そして、本人は「暇」という認識はしない…む~。わからん。

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次は…何を読んでみようかな~。

 もちろん、國分功一郎さんの著書は「暇と退屈の倫理学」だけではありません。ので、色々な本を読んだら、こちらで紹介できたらな~っと思っております。

 國分功一郎さんの「目的への抵抗」を読んでみた!

 さて、次のページでは、國分功一郎さんの「目的への抵抗」(新潮新書)を紹介しまーす。

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