さて、というわけで引き続き、國分功一郎さんの著書を読んでみました~。
今回読んだのは、新潮新書の「目的への抵抗」です。
さて、どんな内容なのか…たのしみですね~。
新潮新書…創刊20周年!
新潮新書って…あまり買ったことないな~っと思っていたら、なんと2023年の今年は、新潮新書創刊20周年なんですって!
意外に…最近なんですね~という感じですね。そういえば…当時、話題になってましたよね…。養老先生の「バカの壁」とか…。たしかに、新書といえば、岩波新書、中公新書、講談社現代新書って感じがしますが、これらはワタクシが学生の頃からありましたし、学校の図書室にもありましたもんね~。
ということは、今の学校の図書室には、新潮新書やちくま新書などもあって、最近のカラフルな新書もあるってことですよね~。いや~、いい時代ですね~。
読んでみた~。
この本は、1部と2部に分かれています。1部は、東京大学教養学部主催「東大TVー高校生と大学生のための金曜特別講座」でのオンライン講義の内容を、2部は「学期末特別講話」と題する特別授業「不要不急と民主主義」という対面で開催された講義の内容をまとめたものです。
2部は、学期末ということですので大学の授業ということだと思います。若干、2部の方が言葉が難しいなと感じました~。そして、各部ごとに生徒からの質問も受けています。
質問も、わりと多く受けてくれているな~と感じたことと、質問に対して國分さんが、丁寧にまじめに答えているのがとてもいいな~っと思いました。
簡単に内容紹介!
イタリア人の哲学者でジョルジョ・アガンベンという方がいるそうです。そのアガンベンさんが、2020年にコロナウイルスの蔓延にたいする論考を発表したところ、ちょっとした炎上騒ぎになってしまったというものです。
アガンベンさんの論点は3つあるそうです。
1、生存のみに価値を置く社会
2、死者の権利
3、移動の自由の制限
ここに記載した論点だけ見ると…とても危険な香りがしますね~。この論点だけをとりあげて議論はできませんので、気になる方は…ぜひ、読んでみることをお勧めします~。とても読みやすいです。
生存のみに価値を置く社会
ワタクシの大好きな小説にこんなセリフがあります。
「人間の社会には思想の潮流が二つあるんだ。生命以上の価値が存在する、という説と、生命に勝るものはない、という説とだ。人は戦いをはじめるとき前者を口実にし、戦いをやめるときは後者を理由にする。それを何百年、何千年もつづけてきた…このさき、何千年もそうなんだろうか」というものです。
確かに、答える前に考えてしまいますよね~。ただ、現在の日本においては第二次世界大戦の反省から、「命にまさるものはない」という考えが強いのかもしれません。アガンベンさんの指摘は、「命にまさるものがないということは、命を守るためなら個人のどんな権利も放棄するというのか」というものです。そして、「それは、危険なのではないか?」という問いかけなのです。
なぜ、危険なのでしょうか。これは、アガンベンさんの住んでいるイタリアと日本との違いもあるのかもしれません。コロナウイルスが蔓延しているとき、「緊急的な措置」として外出禁止令がでました。ヨーロッパでは町中に警察がいて、外出の許可書を持ってない場合は罰金をとられたりと強制力が強いものだったようです。その「緊急的な措置」は行政権による命令なのですが、立法府を通ってない、つまり法律的な根拠がないものだという指摘です。
つまり、市民の代表である議員が審議していないのに、緊急的な措置ということで出された行政権による外出自粛という強制を、市民は素直に受けてしまっているのは問題ではないか。というものです。
「命をまもるためなら、行政権はルールをやぶってもよい」ということを認めてしまうと、行政が巧妙に市民をだましてしまうことも出てくるのではないか、市民が気付いた時には、我々の権利はそっくりなくなってしまっているのではないかということですよね~。なるほど…。
そう考えてみると…日本の方が深刻かもしれません。日本は、緊急事態宣言がでましたが、とくに外出しても罰金とか、お巡りさんに質問されるとかはなかったと思います。行政の強制力が働かなかったからなのか、「大切な人の命を守るために」といった「情に訴える作戦」をとっていたような気がします。そうなると、我々は自分から選んで家にこもったような錯覚に陥りますよね。これは、一種のプロパガンダかもしれません…。かつて、上から目線で「産めよ育てよ」とか「一億総玉砕」とか言っていたのが、ただ単に「情に訴える作戦」に変わっただけなのかもしれません。
それに対して、我々は「しょうがないよね~」と受け入れてしまっていた。ましてや、「自粛警察」というような人たちもいたりして「同調圧力」をかけてくるわけですが、テレビなどで話題になったときに、過激なことには眉をひそめても、どこかで「目をつけられないようすればいいのにね~」なんて「自粛警察に同調してしまう自分」もいたかもしれません。
勘違いしてはいけないのは、「緊急事態宣言が間違っていた」ということでありません。未知のウイルスに対して、我々がとれる最前の行動は「家でじっとしていること」だったと思います。「命をまもるために家でじっとしてる」で良かったと思います。
ただ、その裏にある問題点にも注意しないといけないよね。ということです。
死者の権利
コロナ禍において、コロナに感染して亡くなってしまった方とは、最後のお別れもできずに早急に火葬されてしまいました。次に会うときには骨になってしまっていたのですが、このことに対して、アガンベンさんは「死者には葬儀の権利」があるのではないかという批判をしています。
これは、「生存のみに価値を置く社会」において、「自分の命を守るためならば葬儀で最後の別れをする権利を放棄しても良い」と生きている方は判断するかもしれないけど、無言の死者にも権利があるのだから、「命重視の考え方によると死者の権利をないがしろにしていることにならないか。」ということですね。
う~ん。これは…宗教観とか死生観というか…民族とか文化とか色々あるので何とも言えないと思いますが…ちょっと…この意見は乱暴というか…極端な気がしますね~。こじつけ的な…。
残された方だって、最後のお別れをしたいと切に願っていたと思いますし、けっして、自分の命を守るために、納得したわけではないと思うんですよね。
もし、葬儀で最後のお別れをしたことで自分に感染したら、また、残された家族に迷惑をかけてしまう、病院の看護師さんだって本当はちゃんとお別れさせてあげたいと思っていたと思いますよ。だけど、そこで何も言わなかったから、「あなたは自分の生命を優先させたけども、死者にだって葬儀を受ける権利があるんだよ~」っと言われてもな~っと思うのです。これは哲学的な問いなのかな~。
権利を主張するとき、義務も発生するのではないですかね~。化けて出ない義務とか…?辞書的にも権利という言葉はあてはまらない、何か別の言葉が必要なのかもしれません。
先日読んだ、「暇と退屈の倫理学」では、人類はもともと遊動生活をしていたということでした。人類が二足歩行を始めたのが…800万年前くらいですが、ずーっと遊動生活をしていたそうです。とうぜん、ある程度の群れ生活だとは思います。
その時、死者はどうしていたのでしょうか…。たぶん、放置ですよね~。
人類が定住生活を始めたのは、1万年前だと言われています。遊動生活から定住生活への変化の理由を「暇と退屈の倫理学」では、気候の変化…たしか、温暖化が原因じゃないかと紹介していたかな~っと記憶しています。
799万年も遊動生活を続けていた人類が、急に定住生活を始めた。そのために、「暇と退屈」が生まれた!という話だったと記憶しています。
わたくしは、このアガンベンさんの意見を読んでいて、死者とのかかわりが定住を選択させたのではないかと感じました。
サルなどは、赤ちゃんが死んでしまっても母親はしばらく抱っこしている~というようなことを聞いたことがあります。母親にとって、妊娠と出産というのは大変なことですが、その分、産まれた赤ちゃんに対する想いも並々ならぬものがあるでしょう。ましてや、数百年前のことですから、無事に生まれてきたとしても、すぐ亡くなってしまうということもあったはずです。
人間は、進化の過程でだんだんと出産が困難になってきたといいます。また、生まれてきた子どもも動物のようにはいかず、誰かが保護してないといけません。つまり、人間が進化すればするほど、出産が困難になってきて、困難になればなるほど、産まれた赤ちゃんに情がわくわけですから、もし、なんらかのことで赤ちゃんんが亡くなってしまったときの母親の悲しみを考えると、現代とそうかわらないのではないかと思うのです。
そのような状況で、赤ちゃんの亡骸を置いて移動生活を続けられますかね~。
ちょっと、難しいかもしれないし、もしかすると、他の動物にいたずらされないように、埋葬というしくみが発明されたのかもしれません。これは、今でいう埋葬とは違うと思いますが…
ワタクシは、死者に対する権利というのはあると思います。権利も義務も持っているのは生きている方です。生きている者だけが、死者を想うことができる。生きている者だけが、死者を伝えることができる。生きている者だけが、思い出すことができるんです。
移動の自由の制限
さて、「移動の自由の制限」というのは、先ほどの「生命のみに価値をおく社会」と密接に関係しています。なんせ、「緊急措置という強権を行政が振りかざし、我々の自由を制限した」のですから、そして、それに対して「世界中の誰もが不思議がらなかった」というわけです。アガンベンさん以外は…。
もしかしたら、気が付いていた人はいたかもしれません。ただ、声をあげなかったのでしょう。その危険性を指摘できるのは、社会の虻としての哲学者だというわけです。
哲学者は、確かに社会の虻としてうるさがられたとしても、社会の問題点を指摘し、我々の目を覚まさせてくれるというわけです。
哲学とは問いをたてること、人類が何百年も考えても答えの出ない問題もあるなかで、問いをたて人類に考えさせることそれが哲学の役割というわけですね。
人類が生まれて800万年、定住して1万年。哲学で考え始めたのなんてつい最近のことなのかもしれません。まだまだ、これからなんですね~。
ワタクシは、「暇と退屈の倫理学」を読んで、「行動を制限されるから暇がうまれる」と考えました。ただし、行動の不自由も「目的」がそれに縛られているので、暇の第一形式=第三形式によって暇は生じないと考えました。
緊急事態宣言によって、行動を不当に制限されたアガンベンさんは、退屈だったんでしょうね~。ところが、日本の場合は、「政府からの情にほだされて」しまったので、なんとなく自分で「目的意識を持ったような気になった」ので、意外に暇ではなくて「家の整理整頓」とか「断捨離」とか、今まで読めなかった本を読むとか、映画を読むとか…わりと…楽しめたのではないでしょうか。
もちろん、死と隣り合わせで働いていた方がもいたわけですから、家でのんびり楽しんでるというのも不謹慎かもしれませんが、「自分で家にいることを選んだっぽい」という部分が重要かもしれません。
そう考えると、やはり、人間には自由意思による自由な行動が重要で、行動を制限する場合は、目的が必要である。というとになり、その「目的」を受け入れることができるかどうかが重要であると、だから緊急的な措置で行政権が強権を発動しても受け入れることができれば問題無くて、これを立法府で審議しますよ~ということになると、色々な反対運動が生じて決まらないかもしれませんね~。事前に、決めておくことができなければ立法の意味はないし、あまり大雑把な法律では、そもそも、憲法に違反してしまう可能性もありますしね~。
今回の、「目的への抵抗」を読んで、一番驚いたのがこの行政権の強さっていう部分でしたね~。学校では習わなかったな~。
長々と書いてきましたが…。
長々と書いてきましたが…これで1部です。ぢつは2部もあるんですが…こちらは、ちょっと難しくて、だけど、核心にせまっているような気がするんですよね~。ちょっと、理解が…進まないぞ…。
少しずつ考えてみよう~ 2023年10月16日更新!
國分さんは、「暇と退屈の倫理学」でも消費と浪費の問題をとりあげています。その中で、ラーメン店を例として出しているのですが、この「目的への抵抗」でもラーメン店が取り上げられています。
生きていくための栄養摂取を目的とすれば、カロリーメイトだけでいいのだからラーメンを食べるということは贅沢にあたる、なのでラーメンをたくさん食べて浪費すれば、満足して浪費はとまるという、これは、飽きちゃうからなのかお腹がいっぱいになっちゃうからなのかはわからない。
しかし、現代では浪費ではなく消費をするように仕組まれていると、消費とはラーメンを食べることが目的にならず、「ラーメンを食べにいくという行為」が目的になってしまっている。どこどこのラーメンを食べた、次はコレコレのラーメンだ、その次はそっちという感じでラーメンをどれだけ食べても満足しなくなってしまう。それが消費行動であると。
ふむふむ…ここまではわかる。
國分さんは言う、贅沢の本質は目的からはみ出た部分にあるのではないか。
つまり、食事の目的は栄養摂取が目的なんだけれども、贅沢は栄養摂取の以外の食事が人に幸せを感じさせるはずであると、だから、食事の目的が「ラーメン店にいく」という事になってしまうと、人はラーメンを食べても幸せを感じなくなってしまうのではないかと。だから贅沢を取り戻そうということなんですね。
そして現代社会は、目的からはみ出るものを認めようとしない社会になりつつあるのではないかという問題提起でもあります。
ここに、コロナ禍とか不要不急が混ざってくるので非常にややこしくなってくるんですよね~。
ワタクシは、暇と退屈の倫理学の感想で、暇と退屈を生むのは目的のない行動制限なんだという仮説を立てました。
それを基本に考えると、消費と浪費の問題も違ったように見えてきます。
國分さんが言うように、我々は浪費を通じて幸せを感じてきました。必要以上のモノを持つことを求めてきたんです。しかし、我々は大量のモノに囲まれたけれども「暇と退屈」はなくならなかったのではないでしょうか。つまり、ラーメンを食べて満足してしまったら、「暇と退屈」になっちゃったのです。目的がなくなっちゃったのです。
しかし、消費者になると暇ではありません。ラーメンを食べて満足している最中に「次はどこのラーメンを食べに行こうか」という新しい目的が生まれます。ゆえに、お腹がいっぱいで動けないという行動制限が生じても、退屈じゃないんです。
ということは、我々は暇と退屈を克服するためにあえて消費者としての道を求めたのではないか。という風に考えることもできます。そして、もしかしたら、消費の方がいいのではないか…と考えてしまう部分もあるかもしれません。
というのは、國分さんの議論の出発点は「不要不急」という言葉からでした。たしかに政府からの要請はありましたが、それは「不要不急の外出」というような言い方ではなかったでしょうか。つまり、「不要不急の行動を制限した要請」だったわけですね。ここでも行動がポイントになっていると思います。そして、ひとつひとつの何か、「仏教は不要不急か」とか「ラーメンは不要不急か」というような議論とは違うと思うんですよね~。
そもそも、ラーメンは早く食べないといけませんが、仏教が不急って意味わからんですよね~。つまり、不要不急って言葉には行動が含まれているわけですから、不要不急という言葉と必要という言葉は対立しないわけですよね。「必要必急」じゃないとダメなんです。
頭がシビレテきた~。 2023年10月18日更新!
第2部を読んでいると…あたまがしびれてくるんですよね~。左後ろの方が…。
國分さんの考察のどこかに違和感を感じているのに、それがどこなのか、どのような違和感なのかが明確にできないんです。う~ん。
ここから、國分さんの考察は、必要と目的、目的と手段という風に続いていきます。
ちょっと…この辺りは、難しくて…ワタクシは…説明ができません~。気になる方は、ぜひ、直接本をお読みになって…ワタクシに解説してください~。
そして、目的を超越するというか、目的を超えた部分が「遊び」であったり「ゆとり」という部分で、それが認められるということが大切なんだとまとめられています。
國分さんが出している例がとってもわかりやすいので、本文から引用させていただきます。
「たとえば、文化祭の出し物を決めるために、学級会で話し合いをしますね。その最初は「文化祭に参加する」という目的がある。その目的のために話し合いが始まるわけだけれども、話し合いそのものが、話し合われている内容によってワクワクするものになっていくことがありますよね。簡単に言うと楽しくなるということです。その時、その話し合いは、もはや、文化祭に参加しなければならないから行われている話し合いではない。話し合いで決まった出し物を準備するにあたっても、その過程そのものが楽しみになることがあります。」(國分功一郎「目的への抵抗」P177)
そういうこと、ありますよね~。そこから、目的を超越した部分が「遊び」であったり、「ゆとり」であったりという「贅沢」な部分なのではないでしょうか。
うん。だから、概ね國分さんの言ってることには、納得ができるんです。ただ、ちょっと、違和感を感じるのが、消費と浪費の関係、そして、目的からはみ出る部分を認めない社会になりつつあるのではないかという部分だと思います。
ラーメンを食べに行くという行為についても、ラーメンに行くという目的からはみ出る部分はあるはずで、であればそれは贅沢の一種なのではないか。
そして、芸術家だけがアートをするのではなくて、市民が演劇に参加したり、踊ったり、趣味で描いた絵をSNSに投稿したり、俳句を詠んだり小説を書いたり…そういった、活動はコロナ前からもあったし…逆にコロナ禍を経験したことにより、「好きなことをやろう」という人が多くなったような気がするんですよね~。ま、その辺は、検証できないかもしれませんが…。
ワタクシは、全然大丈夫だと思っています。
そして、「暇と退屈」で考えてみると、目的を持った行動制限は退屈を生まないので、その目的を超越してしまったら…もう、暇な人はいなくなってしまうんです。
もう、みんな忙しい、やりたい事がいっぱいある。ただ、それは物質的なものではなく、デジタルなもの、記号的なものであることは確か。
VRを手に入れた人々は、家にいながらどこにでも無限に行動することができるようになったのです。もはや、誰も行動制限をすることはできないし、我々は、また家にいながら遊動生活に戻っていくのかもしれません。
まとめ 2023年10月18日更新!
というわけで、國分功一郎さんの「目的への抵抗」を読みました~。
話し言葉なので、言葉がわかりやすくて考えるのに非常に助かりました~。考えもわかりやすかったです。ただ、2部のベンヤミンとアーレントのあたりは…難しかったですね~。
自分も色々と考えてみましたが、虫食い状態で考えて書いていますので、統一感がないでしょうし、飛躍があるかもしれません~。そのあたりは、ご容赦ください~。
気が向いたら、自分のブログを再読してみますけど…。
というわけで、暇と退屈、消費と浪費、目的と手段など…面白いテーマがありますので、皆さんも、色々と考えてみてください~。
考えるところは…どこだ? 2023年10月3日更新!
考えている途中なんですが…気になったことを書いておきましょう~。
「暇と哲学の倫理学」を読んでから、人間の遊動生活が、何故、定住生活になったのかというのが気になっています。自分は、人類の発展のポイントは言語というか…音声サインだろうと思っていたのですが…行動というポイントから見てみると、確かに定住というのは不思議ですよね~。
やはり…西田正規さんの「人類史のなかの定住革命」を読まなければなりませんかね~。
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