夏目漱石先生の「こころ」は、今後も日本文学の名作でいられるのか。

本や読書。

 さて、集英社文庫のナツイチ2022で、よまにゃオリジナルブックカバー「こころ」を読みました。
 そう…近代日本文学の父と呼ばれる、あの夏目漱石先生の「こころ」です。

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昔も読んだことがある…。

ネコがいればよかったんだよね~。

 中学生か…高校生か忘れてしまいましたが、1度だけ読んだことがあります。その時は、つまらなくて全部読むのに難儀した覚えがありますね。まぁ、子どもが読んでも面白くないかもしれませんね~。よくわからないのではないかと思います。

 あれから、30年以上経っているわけですが…大人になってから読むと、きっと違った感想があるはずですよね~。

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読んでみてどうだったか…。

 まぁ、面白いか面白くないかと言われたら、面白くはないですよね~。やっぱり、よくわからんです。
 登場人物の「先生」や「私」の考え方は、明治時代の頃のモノだと思うので、現代人が読んでも細かい気持ちや感覚までは汲み取れません。それを、研究したり調べたりしてみるのも面白いのかもしれませんが、小説の中のことですし夏目漱石先生を研究したとしても、書いた本人に聞けるわけではないので、結局のところ想像を突破することはできないのではないでしょうか。

 じゃぁ、読む意味はないのか…というとそうでもなくて、考え方次第では、いろいろな事を考えるきっかけになるのではないかと思います。

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そもそも、文学の必要って必要?

 ワタクシも読書が趣味ではありますが、読書が仕事の方と比べると読み方も読む量も違います。ただ、ワタクシたちのような「趣味が読書~」という人たちがいてこその文学だと思いますし、好きな感想を言いたい放題いえるのも、ワタクシ達の特権でもあります。まぁ、それが楽しいわけなんですが、そもそも、文学って必要なの?というのは、つねに心の片隅に燻っている思いですよね~。

 日本文学を広く見渡すと、推理小説もライトノベルも文学に含まれるでしょう。毎日、たくさんの事件が発生し、たくさんの名探偵が活躍し、たくさんのヒーローやヒロインがいます。とうぜん、悪い奴らもたくさん存在します。ちょっと多すぎやしませんか…。

 それでもワタクシたちは人間ですから、時代を超えても変わらないモノがあるんですよね~。文学で表現されているものが創作された想いだとしても、読めば心に響いてしまう、考えてしまうというのは、言葉の意味だったり、強さだったり、それこそが文学の魅力ですよね。ギリシャ悲劇やシェイクススピアが面白いのは、そういった人間の本質の部分に訴えてくるからですよね~。

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令和の時代からみたときに何が問題なの?

 では、現代人の感覚に引っかかる「こころ」とは、どのようなものなのでしょうか?
 このつねに「今」を基準に考えることができるって部分がいいんですよね~。基準はなんでもいいんです。「今」だったり「現在の自分」だったり、基準も変化していいんです。
 自由に考えてみましょう~。

なんで先生が好きなの?

 この作品のつまらないなぁ~っと思ってしまう部分の一つが、「先生と私の関係」だと思います。それが、恋愛感情でも憧れでもどちらでもいいのですが、「私」が「先生」のどこに惹かれたのかが理解できない。一目惚れなの?容姿なの?という感じですよね。ワタクシとしては、「私」に共感できない、納得いかないところが残念なところですよね~。

そもそも先生に魅力ある?

 現代で言うと…先生って、「最低な人ですね」と言われてもしょうがないと思いますよね~。
 もちろん、明治時代の方だということはわかっておりますが…学生時代から働かなくても食べていけて、大学を卒業してからも定職につかなくても夫婦そろって食べていけるくらいのお金がある。それは親から譲り受けた財産。う、うらやましいじゃないですか…。

 叔父さんに騙されて、お金を取られてしまったようですが…今で言うと…親の財産が100億くらいあったのに、半分取られちゃって50億円しか残ってないよ~。という感じじゃないですか?それでも一生働かなくても食べていけるのでしたら…それで充分じゃないですか。う、うらやましい…。

 それなのに、騙されたからって人間不信になるというのは…私たち庶民とは、考え方が違いすぎますよね~。不信でもなんでもいいから、働きなさいよってことです。

先生は誰一人幸せにしていない

 もちろん、先生が明治時代の方だということはわかっておりますが、先生という方は、自分がなぜ生まれてきたのか…とか、自分の存在意義について考えたりしなかったのでしょうか。
 時間がたっぷりあると、かえって自分を見つめ直すことをしなくなってしまうんでしょうかね~。

 人間は誰でも罪を犯します。取り返しのつかない事もあるでしょう。そういった罪を犯してしまった場合は、償いなどはどうすればいいのでしょうか。「死んでお詫びする」といような考え方もあるでしょう。先生が自殺したことを称賛したり「そうでなければこの小説は完成しなかった」などといったりする人もいるようですが、そういう自分勝手な意見がまかり通る時代だったのでしょうね~昭和とか、平成の初期のころというのは…。そういう意見…とくに男子に多いと思います。

 現代では自殺はしてはいけないのです。先生は、Kに悪かったと思うのなら、死を選ばずに死よりも辛い選択をするべきなのです。

 それは、奥様を大切にそして幸せにする事です。自分のくだらない思いなど墓場に持っていけばいいんです。インテリぶってグダグダ悩んで誰一人幸せにすることなく死ぬなんて…非常識にもほどがある。「死ぬ前にたった一人でいいから信用して死にたい」とか…アホかって思っちゃいますよね~。

 ただ、これはですね「信用したい」ではなく本当は「信用されたい」だと思いますね。

 先生は、騙されたことで人間不信になった、だから人を信用することが怖い、ゆえに、逆に信用されることも怖くなった。しかし、人に信用されないっていうのは、つらいですよね。誰しも人間の心理として、信用されたいとは思うものです、それを克服できそうだったのが「私」との関係でしょう。何年にもわたる交際のおかげで、先生にも誰かを信用するということができるようになった、ただ、だからと言って今度は自分が信用されるかというと別問題ですよね。相手のあることだから。
 ですので、自分(先生)は「私」を信用する。だから、過去を告白し奥様には言わないでと言える。そのかわり、自分も信用されたいという欲求が生じてきた。

多分…死んでいないと思う。

 この作品では、先生の手紙で終わっていて、その後については書かれていません。ワタクシは、多分、先生は死んでいないと思います。死んだと思っているのはみんなの想像です。夏目漱石先生は、死んだとは書いてませんよね~。たとえ、創作メモとかそういうのに書いてあったとしても作品としては死んでいない、謎なんです。ワタクシは死んでいないと思いますね~。

 やはり、自分の過去を打ち明けたことによる、承認欲求が生まれると思うんですよね~。先生は最後に「私」に会いたくなるはずなんです。
 もし自殺してしまったら、やっぱり先生は救われないです。ダメ先生になっちゃいます。

 先生を救うためには、後日談として…死にきれないでいたところに「私」が駆けつけて助ける。病院に入院した先生に奥様が号泣。先生はついに、自分の自殺未遂の理由を告白する。それを聞いた奥様は、Kの事は全部知っていましたという告白もあって(Kの奥様への手紙なんかがあったりして…)、ここで、「先生」と「奥様」「私」のやり取りがあって、皆さんナットク。これからはKのお墓参りに一緒に行こうねって事になり、余生を贅沢に暮らすということでいいと思うんですよね~。
 「こころ」下巻って感じで。

 そうなると、先生は持ち前の能力を発揮して、教職についたり活動的になる。Kのなしえなかったことを勉強したりするかもしれません。そんな先生をみて、奥様も「私」も幸せになる。

 Kの事を重く受け止めながらも奥様を大切に幸せに暮らしていましたが、数十年後にはなんと奥様の方が先に亡くなってしまう…。先生は「僕の役目も終わったよ。僕もそろそろ、Kのところに行って詫びなくちゃなぁ」っと「僕は、生まれてきた意味があったんだろうか…」という問いに、「私」が、「私も十分に幸せでしたよ、先生のお陰で就職もできましたしね~」という感じがいいのではないかなぁ~っと思いますね。みんな幸せで。

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現代だから考えられること

 こう考えてみると、お金があって働かない家事もしない男性が、過去の失敗を思い悩んで数十年後に、奥様を一人残して自殺するという話は…現代では売れません。
 そういう意味では、明治時代に書かれておかなければならない文学だったのでしょう。

 ただ、現代でも、そういう考えの人がいないとも限らないというのが重要なのかもしれません。人は関係性の中でしか生きられません。辛い過去も、苦しい現実もあるでしょう…でもね。
 良いと思うんですよ。生きているんだから、誰かのために楽しんでも。自分のために楽しんでも。誰かを悲しませてしまった分、誰かを幸せにする。罪を償うってそういうことだと思います。負の連鎖を断ち切ることがなによりも大切なことなんです。

 もし、「先生」が自殺してしまったら、奥様も「私」も不幸になりますよね。もしかすると、自分を責めるような感情が生まれてしまうかもしれません。それが、負の連鎖なんです。誰かが、我慢してでも断ち切らなきゃいけないんですよね~。

 そして、もし「先生」に子どもが生まれていたら…「先生」の考え方は180度変わった可能性もありますよね~。あの無垢な寝顔をみてください…自分の罪などそっちのけで、世界を敵に回してもこの子を育てなければって思いますよね~。子どもが無理だったら…ネコでも飼えばよかったかも!
 吾輩のような猫を…。

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まとめ

 というわけで、夏目漱石先生の「こころ」について考えてみました。今後もこの作品が古典として残っていくとは思いますが、明治時代の特異な考え方の一例として、日本人の考え方の変遷資料として残っていくのだと思います。
 そして読む人、読む時代にあった考え方で、「こころ」をだしにして、自分の考えを広げて行けばよいのだと思います。
 それにしても時代の変化、考え方の変化って恐ろしいものがありますね~。

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